2013年7月19日金曜日

ヘンデル 「水上の音楽」

今から300年ほど前の1717717日に、ロンドンのテムズ川では、壮大な水上のページェントが開催されました。当時の英国国王ジョージ1世が従者を引き連れ、ホワイトホール宮殿跡からチェルシーまでテムズ川を遡上し、そこで夕食の宴を開催し、翌早朝に帰還したことが記録からわかっています。一隻のバージが音楽演奏用に仕立てられ、そこに50名の演奏者が乗船して演奏しました。1回およそ1時間の演奏を国王はたいそう気に入られ、3回も演奏させたほどした。このとき演奏されたものが後に「水上の音楽」としてまとめられたものにほぼ相当することは間違いありません。
従来説としては、「水上の音楽」は、1715822日のイベントであったとされてきましたが、最近では、この説は電気作者の勘違いであると考えるようです。きちんとした著者が書いているCDの解説やBBCの放送の解説などほとんどのものが1717717日説をとっています。
この水上のページェントは、単なる思いつきの遊興ではなく、政治的に様々な思惑が絡み合った重要な意味を持つものでした。英国国王ジョージ1世はもともとハノーファー選帝侯でしたが、スチュアート朝のイングランド王ジェームス1世のひ孫の一人であることから、英国国王も兼務することになったのです。ご本人の意識の中では、ハノーファー選帝侯が自分のアイデンティティであったようで、英国の政治にはあまり関心を持たず、英国に滞在する時間も短かったようです。そのような国王ですから、ロンドン滞在時には、普通の国王よりも「存在感を示す」必要は高かった、少なくとも側近からみれば高かったと推察されます。そのような中で、テムズ川を巡航すれば、両岸から多くの観客が見ることができることになり、また多くの有力者が後続の船で従うところをデモンストレーションできることにもなり。国王の存在感と権威は自然と高まると期待できます。この政治的意図で注目すべきなのは、皇太子であったジョージ・オーガスタス(即位してジョージ2世)を参加させていないことです。国王と皇太子が不仲であったことがこの背景です。
この背景の中にあって、ヘンデルの立場は微妙でした。ヘンデルはもともと1710年にハノーファー選帝侯の宮廷楽長に任命されていましたが、イタリアに勉学に行ったきり、宮廷楽長の職をすっぽかしてロンドンに滞在していました。まさか、そのハノーファー選帝侯が英国国王になろうとは思わなかったでしょうから、ヘンデルとしては、苦しい立場になったと思います。そこで、恭順の意を示すために自らすすんで「水上の音楽」を作曲したと言われていますが、実際には、国王との仲直りはすでに済んでおりますし、政治的に重要な意味を持つページェントの作曲をそのような私的な理由で任されるわけもありません。慎重に計画された上での演奏であったとおもいます。
もう一つの要素として、国王と皇太子が不仲であった中で、ヘンデルは皇太子とも親交があったことがあげられます。
1717717日の水上ページェントに、ヘンデルが作曲した1時間あまりの音楽が演奏されたことは間違いありません。しかし、これが現在の「水上の音楽」であるのか、その一部なのかについては、よくわかっていません。
この演奏は国王にたいそう気に入られ、ナショナルアイコンとしてのヘンデルの立場を固めた、ヘンデルにとって重要な作品でした。
そして、“その当時の英国を代表する大作曲家”ヘンデルが国家的行事の作曲をもう一度行ったのが、1749427日のグリーンパークで開催されたオーストリア継承戦争がアーヘン条約(エクス・ラ・シャペル条約)(1748)により終結したことを記念した大規模な花火行事です。これについては、別の機会に検討しましょう。

「水上の音楽」についてまとめるにあたって、思い浮かんだのは、201263日のエリザベス女王の在位60年記念の川下りページェントです。この両者を比較することで、1717年の水上の行事がより具体的にわかるのではないかと考えたからです。
結論から申しますと、2つの行事は、1717年が遡上であったのに対して2012年は川下りであったということを除けば、大部分のコースが重なっていました。2012年のページェントが、手こぎボートの船速に合わせた川下りでありましたので、そのゆったり感は、1717年の行事を十分に想像できるものです。




1717年の出発点は、ホワイトホール宮殿跡地あたり、現在の大観覧車「ロンドン・アイ」のちょうど向かい岸あたりで、目的地はチェルシー地区でした。一方、2012年の川下りでは、女王の乗船された船は、チェルシー地区のアルバートブリッジのたもとにあるカドゥガン・ピアから出発され、ロンドン橋までの巡行でした。地図で見ますとほとんど重なっていることがわかります。
なお、2012年のページェントでは女王のバージを先導する船にアカデミー室内管弦楽団が乗り、「王宮の花火の音楽」と「水上の音楽」を演奏しました。BBCの生中継では、女王の船がカドゥガン・ピアを離岸するあたりにアカデミー室内管弦楽団の演奏が微かに聞き取れます。この時の様子については、アカデミー室内管弦楽団のホームページ:
Handel on the Thames: AAM at the Jubilee Pageant
に掲載されていますので、そちらをごらんください。他にも2本のビデオが公開されており、とても興味ふかいものになっています。YouTubeにも掲載されています。




実は、この水上交通に関して、気になってきたことがもう一つありました。それは、昔みた映画「わが命つきるとも」の16世紀のトマス・モアの半生を描いた作品の中で、トマス・モアが自宅に帰るのにボートを使っており、川辺に面した居館に帰り着いたシーンを記憶していたことでした。そこでもしやと思い、トマス・モアの居館の所在地を調べて見ましたところ、エリザベス女王が出発したカドゥガン・ピア(アルバートブリッジ)よりもう少し上流、現在バッターシー橋が架かっているあたりであることがわかりました。ボーフォート・ストリートには、ローマ・カトリック教会Chapel of the Most Holy Sacrament and Saint Thomas More Roman Catholicが現在あり、トマス・モアはすぐ近くに住んでいたという解説がありました。一方、もう少し下流のオールド・ストリートにある英国国教会のオールド・チャーチにも、トマス・モアが礼拝に通うために建造した建物(消失)があります。ですから、トマス・モアの居館は、このあたり(つまり、チェルシーフラワーショーの開催地より少しだけ上流のあたり)にあったことになります。
トマス・モアがロンドンの行政府との間を“通勤”できるほどの距離であったのですね。
1520年ごろ、トマス・モアが自宅との往復につかい、最後はロンドン塔に連行されるのに使われた水路が、1717年には「水上の音楽」が演奏されたページェントに使われ、そして2012年にはエリザベス女王在位60周年の水上行事に使われたということになります。

さらに余談になりますが、先ほど説明しましたオールド・チャーチの向かいにはRopers Gardens(ローパーズ・ガーデン)があります。少し窪地になった小さな公園です。これは、もともとトマス・モアが娘に譲渡した土地の一部でした。娘の結婚した相手がWilliam Roper1521年のことですから、公園の名称はそこに由来するのでしょう。窪地になっているのは、第二次大戦のロンドン大空襲により生じたものです。さらにこの公園には、桜(ancient cherry tree)が日本の柔道家、イギリス柔道の父 (the Father of British Judo)、小泉軍治を記念して植樹されているようです。Google Mapの最新版のストリートビューで、この公園の周囲を鮮明に観察できるのですが、残念ながら、桜の花の時期の撮影ではありませんので、どの木なのかは確認できませんでした。


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