2013年10月9日水曜日

バッハ親子を育んだフリードリヒ「軍人王」?

最近のエントリーで、ケーテン時代のバッハについてお話しました。

今回は、それらのことがフリードリヒ「軍人王」と大いに関係しており、また別の意味で、J.S.バッハの息子カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(以下、エマニュエル・バッハ)とも関係していることをお話します。

この「軍人王」(あるいは兵隊王)というアダ名のつけられたプロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、同君連合としてのブランデンブルク国王でもありました。
ここで注意しておいていただきたいのは、“ブランデンブルク協奏曲”の献呈先はこの王ではありません、献呈したのはブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン=ルートヴィッヒです。ブランデンブルク=プロイセン同君連合の中の主権を持たない行政地域の領主(ほとんど貴族)でした。

さて、軍人王フリードリヒのことに話を戻しますと、1713225日、父王フリードリヒ1世の死去にともなってプロイセン王となったフリードリヒ・ヴィルヘルム1世ですが、財政は破綻寸前でした。父王の浪費が原因と言われています。そこで、新しい王は、軍事、財政の改革に乗り出すことになります。ヨーロッパ各地からプロテスタント系の経済力のある難民を受け入れて国勢を拡大させ、増加した税収を軍事費の拡充に回し国力の強化に努めました。その一方で、“無駄”と判断したものへの出費は極力切り詰めました。

当然のこととして、父王が振興した学芸の方面は、大幅に切り詰められ、宮廷楽団は解散させられてしまいます。この解雇されたベルリンの宮廷楽団のメンバーを雇い入れ、自らの宮廷楽団の基礎を築いたのが、ケーテン王レオポルトだったのです。バッハが宮廷楽長として着任したころには、宮廷楽団の整備はほとんど完了していました。その整備の中心だったのが、ベルリンの宮廷楽長ラインハルト・シュトリッカーでしたので、ベルリンの宮廷楽団からの移籍組でケーテンの宮廷楽団が構成されていたと言えるでしょう。実際、ケーテン宮廷楽団の常任メンバー17名のデータがありますが、合奏要員(リピエニスト)とか町楽師とかの肩書の、ちょっと立場の低い人を除いても11名がおり、相応の給与を得ていたようです。相当に優秀であったという記録もあります。
つまり、レオポルトが短期間で優秀な宮廷楽団を結成でき、それをバッハが存分に使って演奏出来たのも、もとはといえば、フリードリヒ「軍人王」が自らの楽団員を解雇したことから始まっていたのです。

それでは、息子エマニュエル・バッハとフリードリヒ「軍人王」との関係はどうなのでしょうか?
それは、フリードリヒ「軍人王」と、息子で後にフリードリヒ大王と呼ばれるようになったフリードリヒ2世との関係に答えがあります。

先ほど書きましたように、フリードリヒ「軍人王」は破綻寸前の国を救うため、軍事、財政改革を断行しました。軍人王の人柄を「無骨者で芸術を解さない」王と表現されることが多いのですが、そのような国政改革を断行する立場の影響でそのように評価された面もあるのかもしれません。ただ、別のエピソードとして、とても細かなことにかかずらい、例えば、「市場の物売り女は、暇な時には無駄話をせずに糸を紡ぐべし」という勅令を出し、しかも違反者は容赦なく鞭打ったということがありますので、このような性格と芸術への理解とは、水と油の関係であったのだろうと思います。

さて、フリードリヒ「軍人王」とゾフィー・ドロテーアの間に生まれたのがフリードリヒ2世です。母親ゾフィー・ドロテーアはハノーファー選帝侯の娘であり洗練された宮廷人です。当然のことながら芸術に対する理解も深かったのです。フリードリヒ2世は、母親に似て、芸術家気質であり、とりわけ音楽を好み、自らフルートの名手ともなりました。父親フリードリヒ「軍人王」にしては、このようなことは当然面白くありません。多くの衝突が起こり、フリードリヒ2世は虐げられながら成長していくことになります。

そして、1740年に自ら即位すると、啓蒙主義的な改革を果敢に進め、その結果、ベルリンには自由な雰囲気がただよい、「北方のアテネ」と称されるほどにもなりました。音楽においては、前古典派の一つの流れであるベルリン楽派が形成されました。その中心の一人になったのが、エマニュエル・バッハです。エマニュエル・バッハは1740年から1967年まで、宮廷チェンバロ奏者として大王のために働いています。この際の就職活動はエマニュエルが独力で行ったようです。

以上のことをまとめますと、
1. フリードリヒ「軍人王」の国政改革(と、おそらくは芸術嫌い)のため、ベルリンの宮廷楽団を解散させたことが、ケーテン宮廷楽団の誕生につながり、バッハが宮廷楽長として活躍できることとなった。
2. さらに、息子フリードリヒ2世に対する芸術を否定する教育方針が、逆にフリードリヒ2世に芸術に対する強い信念をいただかせた。その結果、王位の継承後に、「北方のアテネ」と呼ばれるほどの文芸科学の興隆があり、音楽的には、「ベルリン楽派」として古典派音楽への流れの一つを作った。その流れでは、息子エマニュエル・バッハが大きな役割を果たした。


ここで、更なるトリビアを2つ:
17475月に、J.S.バッハはベルリンの宮廷を訪問しています。フリードリヒ2世からの強い要請があり、エマニュエル・バッハが仲介したと言われていますが、よくわかりません。
その際に、2つ重要なことがありました。
一つは、王が与えた主題などをもとに、「音楽の捧げもの」が作曲され、献呈されたことです。音楽史に燦然と輝く作品は、このような事情で誕生しました。
もう一つは、滞在中に、宮廷内に何台かあったジルバーマンのフォルテピアノを試奏したことです。バッハの鍵盤音楽は、チェンバロとオルガンと考えがちで、実際にそうなのですが、現在のピアノにつながるフォルテピアノにも触れていたのです。あと5年長生きすれば、フォルテピアノによる作品が多く作曲されたかもしれません。

もう一つのトリビアは、フリードリヒ2世のお母さんゾフィー・ドロテーアについてです。ハノーファー選帝侯の娘であることは、先ほど説明しましたが、このハノーファー選帝侯は、後に英国国王も兼務することになったジョージ1世です。ヘンデルが「水上の音楽」や「宮廷の花火の音楽」を作曲した際の、あのジョージ1世です。

西洋音楽史は、いろいろな作曲家や演奏家が複雑に絡み合った世界なのです。


2013年10月6日日曜日

J.S. Bach 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043

作曲年代は、ケーテン時代とする説とライプツィヒ時代(1730年から31年にかけて)とする説があり確定的ではありません。
後に2台のチェンバロのための協奏曲BWV1062に編曲されて残っています。これは、エマニュエル・バッハなどの子供達や弟子たちの教育用として用いたものと思われます。
ヴァイオリンのものとチェンバロのもので比較すると、ヴァイオリンは長い音を持続的に出せますが、チェンバロは撥弦楽器ですので、いったん音を出したら、持続させることは困難です。その点で、第2楽章の旋律の演奏を考えると、ヴァイオリンのための協奏曲のほうが、この曲には合っているようにも感じます。

ここではバッハの緩楽章の中で最も美しいものの一つと言われている、第2楽章について少し検討してみましょう。

この楽章は、2挺のヴァイオリンが旋律を互いに織りなして行くのを、リピエノと通奏低音が和声的に控えめに支えるという基本的な構造をしています。緩楽章では、このようなしっかりした支えの上に独奏楽器が豊かにふるまうことで、印象に残る音楽となります。

さて、2挺のヴァイオリンはどのように絡み合っているのでしょうか?
ごく基本的な点を、冒頭から探って行きます。


図1  BWV1043 第2楽章 冒頭




冒頭はヴァイオリンIIの順次下行旋律で始まり、2小節後からヴァイオリンI5度上で追いかけるという、典型的なフーガのスタイルをとります。赤い○で示した部分が旋律の冒頭を示しています(図1)。

そのような追いかけが、8小節からは、2つの声部の間隔が短くなり、音程も2度上から始めて、交互に繰り返すという、2度のカノンのようなものに変化します。図2では、薄いサーモンピンクの○で示している部分です。


図2 BWV1043 第2楽章 8小節〜


このように対位法的な手法を柔軟に使っています。
もう一つ注目すべきなのは、一つの旋律内で、旋律の小さな塊が順次上行や順次下行を行っているという点です。
8小節から始まる2つの声部の交互の2度上行だけでなく、同一旋律内にもそのような順次上行、下行が潜んでいるのです。

つまり、声部間のレベル、旋律の骨格レベル、旋律内のミクロなレベルに、順次下行(および順次上行;2つは等価)が潜んでいる訳です。

2つの蝶(モンシロチョウのような小型ではなく、オオゴマダラのように大型で優雅に飛ぶ蝶)が飛び交う様子を想像すると良いと思います。
オスとメスの2頭のオオゴマダラが高さを変えながら飛び交います。その全体の動きの中、一回羽根をうちおろすごとに、波のように高さを変動させながらも、次第に高く(あるいは次第に低く)なっていくようなイメージです。

さらに細かく分析すれば、この曲のさらに深い構造が見えてきますが、2つの旋律をこのようにイメージすることだけでも、この作品の理解が深まると思います。




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