J.S.バッハ(以下バッハ)はケーテン時代の32歳から38歳とライプツィヒ時代の1729年3月から、少なくとも1741年ころ(44歳から56歳)までに、室内楽作品などの非宗教作品を多数作曲する機会がありました。
この2つの時代に室内楽作品を多く作曲したのは、演奏の機会が多くあったからです。ライプツィヒ時代については、ライプツィヒ大学の学生を主体とした演奏団体「コレギウム・ムジクム」を指導し、コーヒーハウスの経営者ゴットフリート・ツィンマーマンの協力のもと、彼の所有するカフェの店内や庭園で、毎週1回2時間程度の演奏を行っていました。1つの演奏団体が毎週演奏会を開催するというのは、現代から見ても相当に活発な活動です。演奏したのはバッハの作品だけではありませんが、自身の多くの作品を演奏する機会が与えられました。
ケーテン時代には、芸術に理解の深いレオポルト侯のもとで、宮廷楽長に就任し、当時としても比較的大きな宮廷楽団を指揮することとなりました。この楽団の常任メンバーとしてバッハを除き、17名の存在がわかっているのでその当時としては大きな規模の楽団でした。
ちなみに、この楽団のことを、当時の会計簿では「コレギウム・ムジクム」と呼んでいます。先ほどのライプツィヒ大学の「コレギウム・ムジクム」を固有名詞であると理解している人もおられるでしょうが、多くの楽団が「コレギウム・ムジクム」と名乗っておりました。そのため、「ライプツィヒのコレギウム・ムジクム」とか「ケーテン宮廷のコレギウム・ムジクム」とか何らかの修飾語を加えないといけません。
さて、宮廷楽長ですから、宗教曲に関する第一義的な義務はなく、自作や他の作曲家の作品の演奏に注力することができたわけです。これにはもう一つ、レオポルト侯がカルヴァン派であったことが関係します。カルヴァン派はルター派と比較して、教会音楽にあまり重点を置いていなかったようです。そのため、非宗教音楽の演奏や作曲に力を入れることができたとも考えられます。
ただし、ケーテン時代の非宗教作品については、よくわかっていないことが多くあります。これまでケーテン時代の作品と考えられていた管弦楽曲や室内楽作品の多くで、ライプツィヒ時代の作品の可能性が出てきています。また、ケーテン時代にベルリン辺境伯に献呈したことが明白な「ブランデンブルク協奏曲」(種々の楽器のための協奏曲)にしても、もともとの作曲は、ケーテン以前のものである可能性が高くなっています。
ひょっとして、とんでもない所から、ケーテン時代の作品が発見されるかもしれません。
この一見幸福に見えたケーテン時代ですが、バッハは新たな職を見つけなければならないような状況に置かれます。
一般には、レオポルト侯の音楽に対する情熱が薄くなったからと理解されていますが、音楽にエネルギーを注ぐことが困難なような背景があったようです。それも2つ。
1つは、弟との相続権争いです。これによって、しばらく領地の一部からの収入が途絶えてしまいました。
もう一つは、ルター派の巻き返しです。ケーテン侯国では、バッハがいた時代の100年ほど前に、当時の領主ヨハン・ゲオルク侯爵がケーテン市などをカルヴァン派に改宗させてしまいました。それに対してルター派はじっと我慢の姿勢を続けましたレオポルト侯の母親がルター派であったことから、次第にルター派の勢力が伸ばされ、深刻な問題となっていきました。
レオポルト侯は1728年末に32歳の若さで逝去されるわけですが、バッハは追悼のためのミサ曲を送っています。楽譜は失われていますが、テキストが残っていることと、マタイ受難曲の中から9曲が転用されたことがわかっていますので、BWV244aとして再現が試みられています。
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