サン=サーンス(1835年10月9日〜1921年12月16日)
フランツ・リスト(1811年10月22日〜1886年7月31日)
サン=サーンスとリストは、互いの作品をそれぞれの立場、場所で積極的に紹介し支援しています。また、サン=サーンスは、リストの交響詩や循環主題など重要な作曲技法を研究し、自らの作品に取り入れています。
とりわけ循環主題については、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」作品78(1886年)の音楽上の重要な要素となっています。その意味で、この交響曲の第3番には、リストの影響が強くあることは明白です。
ただ、リストが1886年7月31日に死去し、交響曲第3番の楽譜(初版)には「フランツ・リストの思い出に」A la Mémoire de FRANZ LISZTと書かれていることから、リストへの追慕を込めた作品であると考えるのは短絡的で適切ではありません。
時系列をきちんと整理してみましょう:
- 1885年:ロンドン・フィルハーモニック協会の委託により作曲開始。
- 1886年5月19日:ロンドンのセント・ジェームスホールで初演。(指揮:サン=サーンス)
- 時期不明:作品を献呈したいとフランツ・リストに申し出る。
- 1886年6月19日付け書簡:フランツ・リストからサン=サーンスへの手紙(献呈に感謝し、ロンドンでの成功を祝い、各地でも成功するだろうと賛辞)
- 時期不明:出版の準備(Durand社)
- 1886年7月31日:フランツ・リスト死去(バイロイト)
- 1886年中:献辞を「フランツ・リストの思い出に」A la Mémoire de FRANZ LISZTと変更して初版楽譜出版(Durand社)
このことから、以下のことがわかります:
- 交響曲の作曲当時、フランツ・リストは存命であった。
- もともとこの作品をフランツ・リストに献呈する意向であった。
- 初演後の出版準備中にフランツ・リストの訃報に接し、献辞を変えた。
フランツ・リストは晩年慢性疾患に苦しんでいましたが、この作品の作曲当時、リストの死をサン=サーンスが予感するとは極めて考えにくいことです。
ですから、この作品がフランツ・リストに対する追慕の音楽であると考えるのは適切ではありません。
次の記事に書きますが、「交響曲第3番の循環主題がグレゴリオ聖歌の怒りの日Dies iraeを引用したもの」と判断し、そのことをフランツ・リストの死に関連付けることは、適切でないことは自明のことです(この交響曲の作曲当時、フランツ・リストはまだ生きており、初演後でもサン=サーンスに手紙を書いたり、バイロイト音楽祭に出かけたりできる体調であったのですから)。
この作品とリストとの関係は、そのようなエピソードからの類推ではなく、循環主題の使われ方を詳しく分析し、リストのものと比較したり、あるいは後に続くフランス近代音楽との関係について分析したりすることのほうが、はるかに豊かな切り口となると、私は思います。
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