最近、デザインの“パクリ”の話題で花盛りです。
クラシック音楽の世界でも同じように旋律が類似しているという問題がありまして、2回にわたって昨年末に紹介しました。
Too many notes! ウィーン古典派オペラ考 Part 2
Too many notes! ウィーン古典派オペラ考 Part 3
この中で、Part 2に触れたモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」での第二幕のフィナーレの直前に、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが晩餐会の準備をしている場面で、楽師たちが、3つの曲を演奏するその最初に出てくるのが、ソレールのオペラ「椿事 Una cosa rara」の第1幕のフィナーレ“O Quanto
Un Si Bel Giubilo”をほぼそのまま演奏しているのは、“パクリ”ではなく引用です。レポレッロが「cosa rara」と曲名を示しているからです。
一方で、マルチン・イ・ソレールが Una cosa raraに、モーツァルトの「フィガロの結婚」によく似た旋律があるのは、ソレールに何らかの意図があったものと考えるのが妥当です。
それでは、モーツァルトは他の作曲家の作品を“パクる”ことはなかったのでしょうか?
一つその候補として決定的とも言えるものがあります。
上段の譜例は、ピアノのレッスン曲集「ソナチネ」アルバムに登場するムツィオ・クレメンティ(1752-1832)の作品集の1曲です。
クレメンティは752年にローマに生まれ、音楽教育を受けた後、イギリスに移住し、1775年(23歳)ころからロンドンで音楽活動を開始し、ピアニスト・教師・作曲家として活動します。さらにピアノ製作と出版の会社を経営し、1802年から1810年にかけての8年間、ピアノの販売促進のため、ヨーロッパを遍歴します。
このヨーロッパ遍歴の一環として、1781年12月24日に、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世は彼をウィーンに招き、余興として、モーツァルトを招いてコンテストをさせます。
コンテストの課題は即興演奏と自身の作品の演奏の2つでした。
その際にクレメンティが自身の作品として演奏したのは、上段の譜例作品47の2でした。
一方、モーツァルトは1791年の「魔笛」の序曲で下段のようなフーガを展開しています。中段にはクレメンティのソナタの調を魔笛の調の変ホ長調に移調したものを示しています。
黄色のマーカーの部分は、旋律は全く同じです。おまけに、モーツァルトが自身の作品(魔笛)よりも10年前にクレメンティのこの作品の演奏を聴いていたことは確実です。
疑問の余地のない“パクリ”と言われてもしかたがないかも知れません。
そう結論づける前に、作品をもう少し検討してみましょう。
クレメンティのソナタは繰り返しが3回です。そして3回目は1回目のオクターブ上になりますので、音楽の展開としては、冒頭に戻ってしまっています。そのため、3回目の繰り返しの後にどう続けるのか、困難な状況に作曲家は置かれます。その結果、何の脈絡もなく、2つの分散和音で旋律を閉じています。
1小節目でダイナミックな旋律を提示しているのに、その勢いが活用されていません。
一方でモーツァルトの場合には繰り返しは2回です。2小節目は1小節と比較して五度上の関係にあたりますから、第3小節での展開の自由度が高くなっています。実際、八分音符で冒頭2小節と関係性を保ちながら、新たな展開を行い、5小節以降の壮大なフーガに導かれています。冒頭の勢いが削がれることは全くないどころか、さらに大きな流れへと自然に導かれ、これから始まるオペラへと聴衆の関心が大きく惹きこまれます。
つまり、“パクリ”であるかどうかは別にして、同じ旋律からの曲の展開としては、モーツァルトのほうが遥かに巧妙で勢いがあり、音楽としての魅力があります。
私は、クレメンティの作品を意識してパクったのではなく、1781年の演奏会を聴いた時の記憶が、モーツァルトの素材の引出しの中に保管されていたのではないかと思います。
モーツァルトの旋律の記憶力に関する並々ならぬ才能については、彼がローマ滞在中に門外不出の秘曲、アレグリ作曲のミゼーレを記憶し、宿に帰ってから完全に楽譜に再現したというエピソードからも明らかです。(このエピソードについては機会があれば紹介します)。
パクリか、パクリでないかという論争は、オリジナリティーおよび著作権が重視される現代では重要ですが、後発作品のほうが先行作品よりも、“優れている”かどうかを評価することもとても重要です。
ここで紹介しましたクレメンティとモーツァルトの2つの作品のように、後発作品が圧倒的に優れておれば、総体としての文化の発展に多いに寄与するものとなります。
一方で、作品としての、あるいはデザインとしての魅力、惹きつける力、含意が先行作品と比較して後発作品に乏しいのであれば、駄作であり、文化には何の貢献もしません。それを選考したり肯定的に評価したりした人々の美的感覚さえも疑われることになります。
一方で、作品としての、あるいはデザインとしての魅力、惹きつける力、含意が先行作品と比較して後発作品に乏しいのであれば、駄作であり、文化には何の貢献もしません。それを選考したり肯定的に評価したりした人々の美的感覚さえも疑われることになります。
ただ、問題は、この“美的感覚”というのが、「主観的なものであり、絶対的な優劣はつけられない」という主張があることです。確かに一面ではその通りなのですが、選考者や評論家がその言説を隠れ蓑に、自らの判断の正当性を主張し、自らの“美的感覚”が絶対に正しいと(明示的にせよ、黙示的にせよ)断定するに至れば、擁護されるクリエーター(作曲家やデザイナー)は”はだかの王様”の状態になってしまうように思います。