6月7日から7月3日まで奈良国立博物館で
特別陳列 和紙 〜 近代和紙の誕生 〜
が行われています。特別展ではありませんので、通常料金で入館でき、奈良博、京博などの年間パスポートがあれば、通常展扱いで年間パスポートを提示すれば何度でも入ることができます。
博物館ホームページやパンフレットからは明治時代に吉井源太の努力で近代和紙が誕生することについて展示がなされるような印象を受けますが、実際には、それに加えて、紙の文化財の紙質調査と修理に関連するものも展示されています。
その中に、2種類の簀桁(すげた)が展示されていました。一つは江戸時代に使われていた「御用手漉き桁」、もう一つが江戸末期から明治にかけて吉井源太が工夫して使うようになった簀桁です。この2種の簀桁の違いはサイズにあります。
江戸時代の「御用手漉き桁」は小判紙2枚が漉けるサイズなのに対し、吉井源太が新たに作った簀桁は小判紙8枚が漉けるサイズで、このサイズが現代まで和紙のサイズとして多く使われるサイズになっています。
吉井源太は生産効率を高めるため、一度に漉ける紙のサイズを大きくするため、簀桁を大きなものにしたのです。
サイズを大きくするのは簡単なことと思われがちですが、よくよく考えてみると、とても大きなテクノロジーのブレークスルーが必要だったと思います。
その一つが簀(す)の平面性を保つための工夫です。トロロアオイでネバネバした水に繊維を浮遊させたもの(紙料水)を簀桁にすくい取り、最終的に形成される紙の厚さを均一にするには、簀の平面性を保つことが必要です。
そのため、桁を予め山形(中央が盛り上がった形)にして、紙料水をすくい取った段階で簀が平面になるように工夫されています。これは江戸時代の小判紙2枚サイズの「御用手漉き桁」でもすでにそのような工夫がなされているという解説がありました。
この紙料水をすくい取った際の簀の変形は、簀桁のサイズが大きくなれば、より大きくなります。そのため、簀を支えるのに、枠だけでなく、桁の中にも桟を入れて支えています。その支える部分が木の桟ではなく、まっすぐ張った針金で、それを下部の桟が支えるようになっています。展示されていた簀桁では、そのような桟が11本ついていました。この部分は和紙の中に透かしのような模様で確認できます。江戸時代の小さな「御用手漉き桁」でも同じように桟が3本ありますが、木製の桟が直接支えるようになっていました。
もう一つ工夫が必要であったと私が思っていますのが、大きなサイズの簀を作ることです。
簀は、簡単にいえば、巻きずしを巻く際に用いる「巻き簾」のようなもので、竹ひごをすだれ状に編んだものです。「巻き簾」とは異なり、とても細い竹ひごを緻密に編んであります。
吉井源太が工夫した小判紙8枚が漉けるサイズの簀については、実物が展示されていました。それを詳しく観察すると、本当に細い竹ひごでした。
これに関して私が疑問を持ったのは、竹ひごの節はどのように処理したのかという点でした。観察した竹ひごには、節に相当する部分は全く見つからないように感じました。その一方で、細い竹ひごに継ぎ目があるように見える箇所が随所に見られました。
江戸時代の小判紙2枚のサイズなら、竹ひごを作るのに節を避けた一つの節間だけで作れるでしょう。ところが、小判紙8枚のサイズでは、どのようにしても1本の竹ひごだけで、全体を作ると、間に節の部分ができてしまいます。
特別陳列にはそれに関して何も説明がなかったのですが、
越前和紙のホームページにそのことについての言及がありました。
その解説によると、やはり簀に使う竹ひごは、節を避けるため、数カ所で接合しており、「ちょんつぎ」、「ねりつぎ」、「ふりつぎ」などの方法があるそうです。
奈良博で観察した簀の竹ひごに継ぎ目があるように見えたのは、そのような「つぎ」の部分だったようです。その継ぎ目はとてもスムーズで、和紙という素晴らしい工芸品ができるまでには、その背景に用具製作への高度なテクノロジーがあるのだと実感しました。
この簀は、何度も修復や糸の編み直しの跡があり、物を大切にする日本の職人の技術が和紙工芸を支えていることを実感しました。
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