Cosi fan tutte o sia la scuola degli amanti(コジ・ファン・トゥッテ あるいは恋人たちの学校)は1790年1月26日にウィーンのブルク劇場で初演された、W.A.モーツァルト作曲、ロレンツィオ・ダ・ポンテ台本のオペラです。
フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニと並ぶ、モーツァルトのダ・ポンテ・オペラの一つですが、コジ・ファン・トゥッテは、それら2作品とは異なり、原作や背景となるストーリーはありません。
オペラの初演とほぼ同時代のナポリに時代と場所が設定されています。この当時ナポリはオーストリアの支配下にありました。
ストーリーは、姉妹を共に愛している若者二人が、初老の「先生」にそそのかされて、姉妹を取り替えて言い寄る壮大な操を試す実験に参加するというものです。
この中で、若者を一旦姉妹たちから引き離す仕掛けとして、王の命令で急に戦地に赴くという芝居を行います。ナポリですから、船による出征です。
程なくして、扮装した男たちが「先生」の友人として姉妹の前に出現します。
このフィクションの背景にある史実としては確定できるものはありませんが、
出征した船の目的地は、おそらくトルコまたはバルカン半島であったと思われます。
18世紀のオーストリアの戦争の中で、可能性があるものが、
墺土戦争(1716-18年)とオーストリア・ロシア・トルコ戦争(1735-39年)であり、それが世相の背景としてこの作品に反映されていると思われるからです。
モーツァルトの意識の中で、トルコは船で行く場所であったことは、前作の「後宮からの誘拐」でも示されています。
一方、扮装して登場した二人の青年のことを、小間使いデスピーナは
Che figure! Che mutacchi!
Io non so se son Vallacchi,
O se Turch son costor
なんという格好、なんという髭
ワラキア人なのか
はたまたトルコ人なのか
と表現しています。この扮装した青年は一般にはアルメニア人と解説されています。
つまり、対戦相手も扮装の青年たちもバルカン半島またはトルコが関係しているのです。
初演地であるウィーンの人々にとって忘れられないことは、トルコによるウィーン包囲(第一次包囲1529年、第二次包囲1683年)、とりわけ第二次包囲でしょう。ウィーンが戦乱の危機に直接さらされたという意義だけでなく、オスマン帝国(トルコ)にそれまで強い脅威を感じていたヨーロッパ諸国が、包囲戦に最終的には失敗したという現実を見て、脅威を打ち消すきっかけとなり、また、バルカン諸国のオスマン帝国からの支配からの脱却の動きにもつながりました。
また、文化的には、コーヒー文化をウィーン市民が認識したことや、クロワッサンの三日月の形がトルコ国旗の模様をフィーチャーしたものであること、ベーグルのあぶみ型の意匠もこの機会に考案されたものであるともされています。
ですから、急な船による出征でも、それほどの悲壮感はないのでしょう。
一方、アルメニア人とされる青年二人は、「髭をつけていること、ナポリの女性から見ると奇妙な格好をしていること」が台本に描かれてます。さらにワラキア人かトルコ人かとデスピーナが推定していることから、ムスリムの服装であると推定されますし、実際に多くの演出がムスリムとして描いています。
ここで問題にしたいことは、この二人の偽アルメニア人に対する姉妹の態度です。胡散臭い来訪者という認識や、言い寄られることに対する拒絶感があるのは当然で、そのような反応は示しますが、ムスリムという宗教の異なる人物であることの拒絶感は全くありません。偽アルメニア人のほうも、ムスリムのことは全く口にしません。音楽でも特にムスリムを意識したと思われる旋律やリズムをこの作品には感じられません。アルメニア人はそれほど厳格なムスリムではないという解説もありますが、ともかくモーツァルトやダ・ポンテが、ムスリムを頭から拒絶する存在としては見ていないことがこのストーリーの背景にあるのでしょう。
まとめると、モーツァルトの世界観では、オスマン帝国は圧倒的な脅威の存在というより、エキゾチックな存在で、ムスリムについてもキリスト教世界の絶対的対極とはあまり考えていないのではないかと思います。
不道徳を肯定する作品と心よく思わない方々もいらっしゃるかも知れませんが、人物描写がセリフとしても音楽としても素晴らしく、構成が巧みで、モーツァルトの偉大なオペラを3曲選べと言われたら、私は躊躇することなくこの作品を加えます。
ただ、最近の演出として、場所を現代のキャンプ場に置き換えるのは、上記のようなエキゾチックな存在が全く捨て去られるという意味で、問題が多いと考えます。
ちなみに、新国立競技場の演出を称賛する声もあるようですが、「現代のキャンプ場に置き換える」という発想そのものは、2000年のエクサンプロバンス野外劇場の公演にすでに見て取れます。
オスマン帝国に対するモーツァルトの認識は、「後宮からの誘拐」にも現れていますので、次回は、この「後宮からの誘拐」を検討します。
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