元LIFE誌専属カメラマンで朝鮮戦争の取材に行かれる途中に、ライカマウントのNikkorレンズを入手されたDavid Douglas Duncan氏が6月7日にご逝去されました。1916年1月23日生まれなので、100歳超の天寿を全うされたことになります。
そのレンズで撮影した写真が、世界の注目を浴びることになり、高性能カメラとしての日本のカメラレンズやボディが注目されることになり、日本の写真工業の発展のきっかけとなりました。
来日中のダンカン氏を同じLIFE誌カメラマンであった三木淳氏が撮影し(Nikkor 8.5 cm)、それを後日ダンカン氏に見せたところ、そのシャープさに驚き、Nikonの大井製作所を訪問し、手持ちレンズとNikkorレンズの直接比較を行い、性能の高さに納得して、Nikkorレンズを購入したのだそうです。
ここまでは、よく知られた話です。どのような比較を行ったかというのがニッコール千夜一夜物語に紹介されています。
投影検査装置を使ったそうです。栃木生産工場で実際に使われている投影検査装置とおぼしきものが、
PHOTO YODOBASHI
作例撮影と工場見学記 かくしてこの「画」は作られる 第5回
に紹介されています。
ごく簡単に言えば、精密なスライドプロジェクタで、スライドの部分にチャートフィルムを置き、それを投影レンズの代わりにNikkorレンズで拡大し、スクリーンに投影し、投影画像の解像や像の崩れを目視確認するものです。
これなら、ダンカン氏手持ちのレンズとNikkorレンズを簡単に直接比較することができます。
そのような検査機を使うのは、レンズの開発や生産では当たり前と思うのですが、日本光学の「発明」によるもので、その当時は他社では使っていなかったようです。今では他社でも普通に使っていると思います。
カリカリNikkorレンズ
この投影検査装置を使っていたというエピソードから、すぐに思い出したのが、Ai-S
Micro Nikkor 55mm F3.5です。私がNikon F2とともに初めて使い始めたレンズです。5年ほど、このレンズ1本で写真を撮っていました。
Micro Nikkor 55mm F3.5の開発のきっかけは、アメリカ製のマイクロフィルム(マイクロフィッシュ)用のレンズでは、日本語の漢字を細かく解像するのに十分でなかったからでした。
そのような経緯ですから、Micro Nikkor 55mm F3.5は、平面の解像度を最大限に上げることを第一の目的として開発されました。平面の文献をマイクロフィルムに撮影することが目的ですから、平面の解像度が重要で、立体的な像の撮影結果については二の次でした。
横道にそれますが、マイクロフィルム用として、富士フィルムはミニコピーHRIIを販売していました。超硬調で、トライXのような粒状感は全くないと言って良いほどの超高解像フィルムでした。
現在でいう、スキャナで取り込んでpdf化し、パソコンのスクリーンに映し出すことに相当する作業を昔はフィルムを使って光学的に行っていました。マイクロフィルム(マイクロフィッシュ)化された文書は今でもたくさん残っていますので、大学附属図書館など大きな図書館には、現在でもマイクロリーダー室があるようです。
このNikkor 55mm F3.5の開発には、先程の投影検査装置が活躍したものと思います。最終用途にぴったりの検査装置ですから。
逆に言えば、平面の被写体から離れた部分の像、とくにボケについての配慮は少なく、いわゆるカリカリレンズというNikkorレンズの評価となって行きました。
その後のMicro Nikkorレンズでは、立体像の表現にも配慮がなされており、そんなにカリカリ感を感じることはありません。
ちなみに、LIFE誌自体の説明が必要な時代になったのですね。
1936年に創刊され、2000年に有料雑誌としては休刊になったグラフ雑誌です。
1967〜1970年ころが最盛期とのことですが、これはちょうど人類初の月着陸(1969年7月)と一致しています。私にとってのLIFE誌の思い出は、サターンロケットの発射の迫力ある写真や、数々の月の写真です。
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