京都の錦小路の西側から入る入り口に、写真のような看板がかけられました。
錦小路の西の入り口に掲げられた伊藤若冲の生家跡の看板 |
江戸時代の画家、伊藤若冲(1716-1810)の生家の青物問屋「枡屋」(通称「枡源」)があった場所です。四条大丸の北口を出て東に向かうと、錦小路のアーケードの入り口になります(そこを南北に通るのが高倉通り)。その入り口の小路の南側にこの看板が掲げられました。この看板だけでなく、錦小路全体に伊藤若冲にちなむ垂れ幕があふれています。
若冲の家業の青物問屋は、実際に野菜などを扱うのではなく、実際に取り扱う業者に場所を提供したり流通を取り仕切るなどのものであったようですが、本人は絵に没頭して、店は潰れてしまいました。
それだけなら、錦小路にとっては、「大店のぼんぼんが道楽で店を潰した」だけになってしまいますが、実際には、錦小路の大恩人なのです。彼がいなければ錦小路商店街は存在しなかったと言えるほどです。
ある日、京都奉行所から、市場の営業に関連する報告と関連書類の提出が命じられます。ところが、肝心の営業許可の免許状をすでに火事で焼失していましたので、書類不備ということで営業取り消し処分が下されます。商売敵の他の商店街が裏で暗躍し、錦小路の取り潰しを狙って十分な根回しをした上での出来事でした。その時立ち上がったのが、すでに隠居し画業に専念してた若冲でした。そして、3年間の努力ののち、錦小路の市場が公認されることになったのです(ウイキペディアにそのことが詳しく書いてあります)。途中で切り崩し工作を受けて、自分の市場だけ生き延びる解決策が提示されたようですが、錦小路全体の存続を目指して、工作に応じなかったと言います。
その意味では、錦小路が現在あるのは若冲のおかげと言えるでしょう。錦小路にあふれている「若冲」には、そのような背景があるのです。